
新生活に心ざわめく球春の季節
“春風や まりを投げたき 草の原”
明治時代に「ボール狂」を自認するほど野球を愛した俳人・正岡子規は、春の到来をそう詠んだ。友人らとの土筆狩りの帰り道、芝の養生された広場を見て「ここでベースボールができたらどんなに楽しいか」と思ったのだという。地元・松山から上京し、1884年に旧制一高(のちの東大)へ入学した正岡子規は、当時、アメリカから伝わったばかりの野球に魅せられ、上野公園内の空き地を球場に捕手としてプレー。青春を野球とともにし、5年後に肺病を発症してもなお、野球への夢を数多くの句や詩歌に綴った。
4月はプロ野球が開幕すると同時に、新生活がスタートする時期。人々の多くの夢が交差するシーズンでもある。中学や高校では、学年が1つ上がった3年生の野球部員が、最後の夏に向けて意識を高める一方、新入部員も入部し、期待や不安、ライバル心などさまざまな高揚感がチーム内で沸き起こる。心機一転し、これまでとは違った部活動やサークル活動を始めた人もいるだろう。勉強にモチベーションが高くなるのもこの時期だ。今年は民法改正で126年ぶりに成人年齢が引き下げられ、とくに若い世代の意思決定や行動選択の幅が広がった。18歳で公認会計士や司法書士になるような学生も増えるかもしれない。
大人になると自分の夢が言えなくなる?
一方で、現代の大人世代はどうだろう。「自分の夢を言える大人」というのは、案外、少ないのではないだろうか。若い人よりも人生経験を積み、さまざまな人や物事と出会ってきたにも関わらず、だ。仕事をするようになると、どうしても職場と自宅の往復で時間がなくなり、ローンや子どもの学費、老後のための貯蓄と、使えるお金にも限りがある。新しいことを始めても続かなかったり、春は部署異動や新たなノルマで憂鬱だというサラリーマンも多い。何より「もう、夢を語るような歳でもないし」と、他人の目や自らの“決め付け”で夢を放棄してしまうのだろう。
だが、夢を持つ大人というのは、年齢や他人の価値観など気にしない。ミュージシャンを夢見た女の子が、20年経った今も、十三のジャズバーで必死にグランドピアノの鍵盤を叩く。田舎から芸人を目指して上京してきた男の子が、30歳になった今も、新宿のライブハウスで大きな笑いをとってやろうと舞台に上がる。例えばそうした友人知人の活動に触れる機会があったなら、その懸命な姿に清清しい気持ちになったり、忘れかけていた心ざわめくような感情を抱いたりするのではないだろうか。声は小さくとも、彼らは夢を語り続けているからだ。
U-12日本代表監督と野球塾、井端弘和の新たな夢
「プロを目指したのは小学生で、その夢を断念したのは中学生(笑)。小学校では“お山の大将”でも、中学校に上がるとすごい奴も現れて周りが見え出してきますから。でも、結局、小学校の頃からずっと野球が好きだったし、もし大学やプロに行けなくても、それこそ草野球だろうが野球をやりたい、野球関係の仕事に就きたいと思ってましたね」
川崎の川中島小学校時代から野球に熱中し、ドラゴンズで伝説の二遊間コンビとして球史に名を残した井端弘和は、そう語る。特別なわけではない。子どもの頃はみな、好きなことに夢中になり、そのフィールドを駆け回る。一流のプロ選手もまた、そうした時代を過ごしてきた。夢に向かって邁進すると書いて「夢進」。母校との交流イベントで小学校を訪れた井端は、そうした言葉を子どもたちに送ったこともある。
その井端は、侍ジャパンの内野守備・走塁コーチとして金メダル奪還の大役を果たした後、WBSC U-12の日本代表監督に就任。今年からは、幼稚園児から中学生までを対象とする野球教室「井端塾」も本格始動させた。子どもたちに夢を与える新たな活動について井端はこう語る。
「塾の子どもたちには『野球選手になれ』とは思っていない。それよりも野球は子どもたちの人間形成において、非常に優れた競技だと思っていて。だから、できるだけ長く野球をやってほしいなと思っています。野球から学べることはたくさんあるし、仮に後々ほかの競技に行くにしても野球をプレーしてきた経験は必ず生きると思いますしね。それが野球というスポーツだと」
子どもたちへの指導は、40代半ばの井端自身にとっても新たな夢であり、やりがいの大きいチャレンジだ。
「低学年の子どもとなると、感覚で物を言っても伝わらないくらい経験が浅いわけだから、自分も引き出しを多くしないとしっかり教えられない。自分自身、いろいろな世代を指導してスキルアップしたいという思いもあるんです。小中学校で野球をやることというのはプロ野球選手ならみんな通ってくると思いますし、現代の子どもたちは、まさにこれから野球界に入ってくる世代ですから。この子たちを教えることで、自分がまた指導者としてプロ野球に戻ったときも『小学生のときはこうだっただろ』『こうじゃなかったか』と、若い選手たちとも憶測ではない実感の伴った話ができる。プロには本当に素材だけで入ってくるような選手もいますからね、小中学校でどういうことをやってきたのかが分かると教えやすいのかなと思うんですよ」
(つづく)/文・伊勢洋平
参考文献
『「野球」の誕生 球場・球跡でたどる日本野球の歴史』小関順二/著(草想社)
- [第1回] 盟友・井端弘和の語る阿部慎之助〜巨人、そしてJAPANの土台を担った稀代の捕手(前編)
- [第2回] 盟友・井端弘和の語る阿部慎之助〜巨人、そしてJAPANの土台を担った稀代の捕手(後編)
- [第3回] 守りの名手・井端弘和の語るプロフェッショナル論〜「自分のできることをする」が勝利への命題(前編)
- [第4回] 守りの名手・井端弘和の語るプロフェッショナル論〜「自分のできることをする」が勝利への命題(後編)
- [第5回] 野球の未来、スポーツの未来を考える〜時代とともに変わるもの、変えてはならないもの(前編)
- [第6回] 野球の未来、スポーツの未来を考える〜時代とともに変わるもの、変えてはならないもの(後編)
- [第7回] 球春2020 〜それぞれのスタートライン〜(前編)
- [第8回] 球春2020 〜それぞれのスタートライン〜(後編)
- [第9回] 夢のバトン 〜天国の野村克也さんへ〜(前編)
- [第10回] 夢のバトン 〜天国の野村克也さんへ〜(後編)
- [第11回] 超一流とは 〜巨人軍不動の4番打者〜(前編)
- [第12回] 超一流とは 〜巨人軍不動の4番打者〜(後編)
- [第13回] 苦難の中高生に対して、大人たちができること(前編)
- [第14回] 苦難の中高生に対して、大人たちができること(後編)
- [第15回] 勝負師・井端弘和の語る、試合の流れを制すもの(前編)
- [第16回] 勝負師・井端弘和の語る、試合の流れを制すもの(後編)
- [第17回] 野球ができる喜び、応援できる喜び(前編)
- [第18回] 野球ができる喜び、応援できる喜び(後編)
- [特別編] 坂本勇人、2000本安打へ。優勝の行方を占う後半戦が幕を開ける!
- [第19回] フィールド・オブ・ドリームス 〜夢を追い続ける力〜(前編)
- [第20回] フィールド・オブ・ドリームス 〜夢を追い続ける力〜(後編)
- [第21回] 84番目の指名(前編)
- [第22回] 84番目の指名(後編)
- [第23回] ヒーローたちのラストゲーム(前編)
- [第24回] ヒーローたちのラストゲーム(後編)
- [第25回] 2021新春 〜今こそ求められるリーダーシップ〜(前編)
- [第26回] 2021新春 〜今こそ求められるリーダーシップ〜(後編)
- [第27回] 甲子園に魔曲の響きは帰ってくるか(前編)
- [第28回] 甲子園に魔曲の響きは帰ってくるか(後編)
- [第29回] 感謝と希望を白球に込めて(前編)
- [第30回] 感謝と希望を白球に込めて(後編)
- [第31回] 心の野球 〜グラウンドの神様が微笑むとき〜(前編)
- [第32回] 心の野球 〜グラウンドの神様が微笑むとき〜(後編)
- [第33回] 井端弘和が語る「マイナスをプラスに変える、気持ちの切り替え」(前編)
- [第34回] 井端弘和が語る「マイナスをプラスに変える、気持ちの切り替え」(後編)
- [第35回] 東京五輪開幕 〜侍ジャパンの闘いは、魂の復興へ〜(前編)
- [第36回] 東京五輪開幕 〜侍ジャパンの闘いは、魂の復興へ〜(後編)
- [第37回] チームの結束を生む、名将の監督力(前編)
- [第38回] チームの結束を生む、名将の監督力(後編)
- [第39回] 甲子園優勝投手 〜世代のトップとして闘い抜いた野球人生〜(前編)
- [第40回] 甲子園優勝投手 〜世代のトップとして闘い抜いた野球人生〜(後編)
- [第41回] 不可能を可能にする、言葉のマジック(前編)
- [第42回] 不可能を可能にする、言葉のマジック(後編)
- [第43回] 明日の自信を生み出す「もうちょっと」の準備(前編)
- [第44回] 明日の自信を生み出す「もうちょっと」の準備(後編)
- [第45回] 失われて気づく当たり前、喪失から生まれる強さ(前編)
- [第46回] 失われて気づく当たり前、喪失から生まれる強さ(後編)
- [第47回] 球春到来! 新たな春に向かって夢を言おう(前編)
- [第48回] 球春到来! 新たな春に向かって夢を言おう(後編)
- [第49回] 同じ目線で 〜子どもたちが野球を好きであり続けるために〜(前編)
- [第50回] 同じ目線で 〜子どもたちが野球を好きであり続けるために〜(後編)
- [第51回] 負けない 〜未来への希望〜(前編)
- [第52回] 負けない 〜未来への希望〜(後編)
- [第53回] 甲子園に響いた、まっすぐな心の球音(前編)
- [第54回] 甲子園に響いた、まっすぐな心の球音(後編)
- [第55回] 出会い、そして成長 〜本当のプライドは育つのか〜(前編)
- [第56回] 出会い、そして成長 〜本当のプライドは育つのか〜(後編)
- [第57回] 運命を手繰り寄せるもの(前編)
- [第58回] 運命を手繰り寄せるもの(後編)
- [第59回] ポジショニング〜世界一のためにそれぞれがすべきこと〜(前編)
- [第60回] ポジショニング〜世界一のためにそれぞれがすべきこと〜(後編)
- [第61回] 勝負へのこだわり(前編)
- [第62回] 勝負へのこだわり(後編)
- [第63回] 野球の未来〜効率化の進む中、残すべきもの〜(前編)
- [第64回] 野球の未来〜効率化の進む中、残すべきもの〜(後編)
- [第65回] 現状からの卒業(前編)
- [第66回] 現状からの卒業(後編)
- [第67回] 初球を振りに行ける勇気(前編)
- [第68回] 初球を振りに行ける勇気(後編)
- [第69回] 石の上にも30年 〜エンジョイ・ベースボールの系譜〜(前編)
- [第70回] 石の上にも30年 〜エンジョイ・ベースボールの系譜〜(後編)
- [第71回] 夢を叶える時 〜122人の新たな挑戦〜(前編)
- [第72回] 夢を叶える時 〜122人の新たな挑戦〜(後編)