不可抗力によって奪われる当たり前の日常
「人生は3日で劇的に変化します。私の国はロシア軍によって攻撃されました。彼らは爆撃で人々を殺している。私の故郷、私の愛するキエフを奪ったのです」
ロシアのウクライナ侵攻後、悲痛なメッセージとともにキエフの街の惨状を自身のSNSで綴ったのは、ダリア・ビロディド。東京五輪でも有力選手として話題にのぼった柔道女子48kg級ウクライナ代表の銅メダリストだ。つい先日まで、道着を着て練習に励んでいた当たり前の日常が、空爆の警報を告げるサイレンによって失われ、住まいを捨てて避難しなくてはならない状況へと変わった。
「当たり前」が失われるのは、瞬時の出来事だ。つねに肉体を追い込むアスリートにとってケガは最も起こり得るリスクだが、中には「なぜこんな悪夢が起きてしまうのか」自分では折り合いをつけることの難しい事故や病気、災害によって選手生命が脅かされることもある。プロ野球選手で言えば、昨季8勝を挙げてオリックスの優勝に貢献した山﨑福也投手は、15歳の頃、生存率10%とも言われる小児性上衣腫の脳腫瘍の診断を受け、6時間に及ぶ大手術を行った過去を持つ。腫瘍は延髄に接しており、手術によって延髄が傷つけば自ら呼吸ができなくなるほどの後遺症が残る。全摘できなければ、いずれ再発して亡くなるケースがほとんどだ。山﨑自身「自分は死んじゃうのかな」という思いにかられ、希望を失いかけた。
井端弘和もまた、プロ生活12年目の春、ウイルス性の目の疾患である角膜ヘルペスに罹り、突然、右目の視力を失ったことがある。角膜ヘルペスはいまだ治療法の確立されていない病気で、薬で進行を抑えても、疲れによる抵抗力の低下でも悪化する厄介な病だ。右目の視界が閉ざされ、遠近感を失った井端は、全国の病院を回るも効果的な治療ができず、一時は引退を覚悟した。病状に悩まされながらも視力を身体感覚で補った井端は、後にレギュラー復帰を果たすこととなるが、今でも右目の視力は完全に戻っていない。
どん底の状況を乗り越えるものとは
そうした防ぎようのない不可抗力から“どん底”に陥った選手たちは、どのように現実と向き合い、グラウンドに戻ってきたのだろうか。「もう無理に違いない」という絶望感や、「なぜ自分がこんなことになってしまうのか」という理不尽さに対する憤りを覚えるのは当然のことだろう。ただ、そうしたやるせない思いを反芻する日々の中でも、山﨑福也の心の中には「また野球ができるかな」という野球への強い気持ちが残っていた。脳腫瘍の宣告を受けてからも、学校から帰宅した山﨑はジムに向かってトレーニングを続けた。「当たり前に練習をしていれば、当たり前にまた野球ができる日もやってくる」。そう信じていたという。
一度は辞めると口にした井端も、体を動かせばウイルスが活性化することを分かっていながら、何かに追われるように二軍練習場隣のプールでトレーニングを始めた。
「こういう状況は昔にもあったじゃないか。なるようになればいいし、見えなければ見えないでやめりゃいい。良くなりゃ良くなったでやればいい」
実は井端は堀越高校時代に左目、亜細亜大学時代には右目にボールを当ててしまい網膜剥離の緊急手術を行ったことがある。かつて乗り越えた辛い経験と、根っからの野球人としての情熱が、いつもの日常へといざなった。
「やりたいことがある」
当たり前の日常を失ったことで、改めて気づくそうした思いこそ、どん底から這い上がる原動力なのかもしれない。
「当たり前」を失った人は心が強くなる
「普通に生きていられて、野球ができることが一番の幸せです」
リハビリを経てグラウンドに戻った山﨑福也にとって、それまで「当たり前」だった日々は、特別な「有り難い」ものへと変わっていた。
失った大切な何かと向き合いながら、現実を受け入れ、自分なりにできる一歩を踏み出していく。そうしたプロセスを経た人々が人間として成長することを、近年の心理学の研究ではPTG(心的外傷後成長)と呼ぶそうだ。それまで当たり前だった些細なことに対しても感謝するようになったり、他人を思いやれる人になったり、人間としての強さを自覚したり、新しい自分の可能性を見出す人もいる。いずれにしても「あの出来事があったからこそ、今の自分がある」と捉えられるようになり、レリジエンス、すなわち対応力や柔軟性を持てるようになる。そうした“心の成長”がPTGの概念だという。
巷ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)というワードがひとり歩きしており、災害やショッキングな事件に遭遇した際などは、とかく「子どもたちがかわいそうだ」「心のケアが必要だ」と言われる。だが、人の心の成長にとって最も重要なのは「かわいそう」と思うことではなく、その人の思いを尊重し敬意を払ってサポートすることだという。PTSDにならない人は、周囲にサポートする人がいたり、過去の経験からレリジエンスを身につけている傾向がある。PTGの研究はそうした考え方から出発し、現在はスポーツ障害やリハビリテーションの分野にも応用されている。
野球界も危機と本気で向き合ったからこそ、今がある
日常の喪失は、個人だけでなく、社会や球界全体にも当てはまる。昨今ではコロナ禍による大会中止や無観客試合、あるいは先日まで引きずっていたMLBの労使交渉による開幕延期もそうだろう。日本のプロ野球においては、長い歴史の中で唯一、シーズン中にストライキが行われたことがある。近畿日本鉄道の財務状況の悪化により、近鉄バファローズがオリックスとの合併を表明した2004年の「球界再編問題」だ。経営が厳しいパ・リーグの球団は他にもあり、球団オーナー側からは球団数を減らして1リーグ化する構想が浮上。それに反発した12球団の選手会側は近鉄・オリックスの合併凍結を訴えたが、交渉は難航し、シーズン終盤の9月18日〜19日の2日間、史上初となるストライキが決行された。
当時、中日ドラゴンズの選手会長として交渉の場に臨んでいた井端弘和はこう語る。
「あのときはみな12球団でやりたいという気持ちで一致してました。ドラゴンズは首位でしたが優勝がどうこうなんてことは誰も考えていなかった。再編問題は、あのときだけの問題じゃない。大げさに言えば50年後、100年後にどうなっているかを考えないといけない問題ですから」
9月22〜23日にかけて3度目の交渉が行われた結果、2リーグ12球団制は維持されることが決定。球団の新規参入要件も緩和された。困難に直面したプロ野球界は、東北を拠点とする新球団・楽天の参入や、セ・パ交流戦、クライマックスシリーズの実現によって新たな発展を遂げることとなる。
「あのときからは考えられないほどパ・リーグもお客さんが入ってる。いろいろなことがガラッと変わった出来事だったと思います」
(つづく)/文・伊勢洋平
参考文献
『勝負強さ』井端弘和/著(角川書店)
『心が熱くなる!高校野球100の言葉』田尻賢誉/著(三笠書房)
『悲しみから人が成長するとき―PTG』宅香菜子/著(風間書房)
- [第1回] 盟友・井端弘和の語る阿部慎之助〜巨人、そしてJAPANの土台を担った稀代の捕手(前編)
- [第2回] 盟友・井端弘和の語る阿部慎之助〜巨人、そしてJAPANの土台を担った稀代の捕手(後編)
- [第3回] 守りの名手・井端弘和の語るプロフェッショナル論〜「自分のできることをする」が勝利への命題(前編)
- [第4回] 守りの名手・井端弘和の語るプロフェッショナル論〜「自分のできることをする」が勝利への命題(後編)
- [第5回] 野球の未来、スポーツの未来を考える〜時代とともに変わるもの、変えてはならないもの(前編)
- [第6回] 野球の未来、スポーツの未来を考える〜時代とともに変わるもの、変えてはならないもの(後編)
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